平塚社会福祉協議会

平塚市社会福祉協議会

第33回神奈川県福祉作文コンクール

本年度は、県内小・中学校から11,133篇もの作品が寄せられ、その中から平塚市の3作品が入賞しました。おめでとうございます。

※ なお、3作品のうち1作品は都合により掲載を省略いたしました。


*優秀賞*(神奈川県知事賞)


『心のふれあい』   平塚ろう学校中学部3年     伊牟田 愛希さん


 私はよく買い物でお店にいきます。お店に行ってたとえば、「この服の色違いありますか?」と店員さんに聞こうとしても、相手は聴者なので、話しかけづらかったりと、どこかにさみしい気持ちを抱いていました。
しかしある日、母と一緒にデパートの地下に行き、いろいろなお店を見て回っていたときのことです。試食できるコーナーがあるお店があったので、そこで母と試食し、「おいしいね」と手話を使って母に話しかけたら、その時お店のお兄ちゃんが「おいしいか?」と手話で聞いてきました。私はその手話にビックリしました。なぜなら、お兄ちゃんは聴者なのに、手話で語りかけてきてくれたからです。
お兄ちゃんに、「おいしいです!」と手話で答えたら、「良かった。よかったらこれも食べてみて」と、また手話で話しかけてくれました。私はそのお兄ちゃんが、手話を使ってコミュニケーションを取ってくれたことに感動しました。本当は二千百円の干し帆立を割り引き、千円にサービスしてくれました。お母さんとニコニコしながら買いました。
 とても若いお兄ちゃんなのに、手話サークルに通って勉強しているのだと聞き、とても嬉しかったことを覚えています。
 それからもう一つ。うれしかった出来事があります。それは、私と同じく耳が聞こえない友達と一緒に、お昼ご飯を食べにレストランに入ったときのことです。注文しょうと思い、呼び鈴を押したらウエイトレスさんが来て、注文したい料理を伝えようとしたその時、ウエイトレスさんが、「ご注文は何になさいますか?」と手話で尋ねてきたのです。二人で思わずビックリして、「手話できるんですか?」と聞いてみました。そうしたら、「できます。昔、手話サークルに通っていましたので」と答えてくれました。私はそれを聞いてホッとした気持ちになり、手話で注文できました。これまでにない経験でした。
 そのウエイトレスさんは、大学生でお若い方ですが、高校生の時、街で見かけたろう者が手話で話していることに影響を受けて、手話サークルに通い始めたんです。と話してくれました。本当にうれしかったです。
これらの出来事のように、他のお店でも聴者に対してだけではなく、幅広くろう者のことも知ってほしいです。そういう社会になれば、ろう者である私達は、もっと安心して買い物にも行かれるようになるでしょう。
実際私の身近にいる人々も、「ろう者」という言葉を知っている人が少ないので、ろう者のためにも「ろう者」をわかってもらえたらいいなと思っています。
ろう者である私達にも出来ることはたくさんあります。それはたとえば、目の見えない人を誘導したり、車いすの人が困っていたら支えたり、お年寄りの荷物を持ってさしあげたり、電車の中で席をゆずったり・・・。困っている人を見かけたら、誰でもいいから手を差し伸べれば、その時縁のあった人同士、お互いにとって、それはきっと豊かな経験になるはずです。それはきっと、何かにつながっていくはずです。
同じ地球上の同じ国、同じ地域に住んでいるだからこそ手を取り合って、支え合って生きたい。わたしには関係ない、ではなく、「関係ある」という姿勢が、私達には必要ではないのでしょうか。
私の友達に「私はろう者だよ」と話してみました。しかし、その人には「ろう者って何?」と聞かれ、私はびっくりしました。
たくさんの人が生活していますが、ろう者を知っている人は少ないのです。又、手話を知っている人はもっと少ないのです。私達ろう者は、これからもっとみなさんに私達のことを知っててほしいと思っています。私達は手を取り合って生きたいのです。近い将来、私は、健聴者とろう者のかけはしになり、差別のない世界にしていきたいです。


*優秀賞* (神奈川新聞社長賞)


『春子おばさん』    浜岳中学校2年   飯尾 美咲希さん


 私の親戚に目の不自由なおばさんがいます。私の祖母の妹で母の叔母にあたる人です。私は春子おばさんと呼んでいます。
 おばさんの家に遊びに行くと、「みさきちゃん元気?」と声をかけてくれて、お茶やおかしを出してくれます。その姿がまったく自然なので、私は春子おばさんが目が悪いということを忘れてしまうほどです。
それで母に「春子おばさんてどれ位見えるの?」と聞いてみたら、母は「私も一度聞いてみたいことがあるのよ、そしたらね、たとえば赤い服の人が近くにいたらぼんやり赤がうつる位だって。」
それを聞いてびっくりしました。おばさんは生まれた時から目が悪く、でも結婚し子供を二人生み、今は孫が二人います。家事も子育ても健常者と同じようにこなし、お仕事も長く続けてきたそうです。
2年前に病気になり仕事を辞めたのをきっかけに、盲人の編み物サークルで編み物を習いはじめたそうです。盲人の方は一目一目手で確認しながら目の見える人の何倍も時間をかけて編みます。目を落としたり、間違えたりした時は私の母が直します。最初はマフラー、次にくつ下、今は二枚目のセーターを編んでいます。おばさんは、「私達は目が見えないからね、長い時間編み物をしても目が疲れないよ。」と明るく笑って言っています。
夏休みに入り、私は友達とスイカ割りをしました。私の番になり、目隠しをしてみるとその瞬間、真っ黒の世界になってしまいました。周りの人が「もっと右、まっすぐ、まっすぐ・・・。」と言ってくれますが、怖くてなかなか足が前に進みません。
タオルを外した時は「ほっ」としました。見えるってこんなに安心なんだ、うれしいんだって思いました。その時、ふと春子おばさんの事を思い出しました。おばさんは、どれほど不自由で不安な生活を送ってきたんだろう。たとえばそれが一瞬や数時間や一月でなく、生まれてから来る日も来る日も続くなんて・・・・。
おばさんは、ある時こんなことを言っていました。「この前信号待ちしていたんだけど、信号が変わっても分からないでしょう。だから、渡れないで立っていたら、前を通る車の運転手の人が『おばちゃん青だよ。渡って、渡って。』って言ってくれたのよ。声の感じから若い人だと思うんだけど、困っているとそうやって親切にしてくれる人が与えられるのよ。私は目が悪いから困ってしまうことがたくさんあるけれど、それは普通のこと。気にかけて、助けてくれる人がいたら、ありがたい、ありがたいと思うようにしているのよ。」
私はこの言葉の『重み』がどれほどなのか、どれほどの試練の中を通って出てきた言葉なのかを考えました。
おばさんごめんね。きっと私はおばさんの苦しみの百分の一も分かりません。ただ私の悩みがとてもちっぽけなものに思えてきました。なぜって私の悩みは「健康な体」が前提にあっての悩みだからです。これから先、私が生きていて、悩んで行き詰まり、出口が見えないようなことに出会った時、くじけそうになったら春子おばさんの事を思い出そうと思います。試練を乗り越えることができたらその時は、弱さをもってなお強く、明るく生きている春子おばさんの“すごさ”が少しは分かるのかな、と思います。
だから私が成長するまで、春子おばさん、もうちょっと・・・いや、かなり時間がかかると思うけど、まっていてね。
いつか私もありのままの自分を受け入れ、誇らず、怒らず、蔑まず、また人と比べるのではなく、自分に与えられたものを感謝し、喜び、楽しむ人になりたいです。
それまで春子おばさんには、一日でも元気で、長生きをして待っていて欲しいと思います。

第32回神奈川県福祉作文コンクール

本年度は、県内小・中学校422校から10,816篇もの作品が寄せられ、その中から平塚市内の2作品が入賞しました。おめでとうございます。


*準優秀賞*


『家族の絆』         金旭中学校3年  二宮 麻美さん

 「おじいちゃん。危ないから無理しないで。」庭仕事に熱中している祖父へ、休憩を促す
ようにお茶を差し出す祖母。最近は畑仕事にも手を広げている祖父の体調を気遣い、絶妙なタイミングでお茶を入れてくる。どこにでもある日常の風景。しかし、祖父の視線の先に光はない。祖父はその容姿からすると、何不自由無い普通のおじいさんだ。もし第三者に、全盲だと判断してもらう手だてがあるとするなら、白い杖や介助者の腕や肩をささえに歩く姿なのだ。
 祖父は戦後、衣食住にこと欠く時代から高度成長の激動の時代を生き、工業関連会社の取締役までのぼりつめた人だ。地域の活動も幅広く、多方面に尽力したようだ。会社をリタイアして間もない頃、視力低下が急速にはじまった。診断は、糖尿病の合併症による網膜剥離。視力回復は不可能ということだった。それでも私達家族は、ひとすじの光でも残してあげたいと願い、何回かの手術を繰り返したが、祖父は暗闇の世界から免れることはできなかった。
 落ち込んでいた私達家族とはうらはらに、祖父はとても前向きだった。日常生活で使いづらいものを自分で改良し、使いやすくしたり、経験と手先の器用さを存分に発揮し、毎日新しいことに取り組んでいた。祖父の行動力には、目を見張るものがある。私達が気遣いを忘れていると、
 「置いてある物を勝手に移動するな。ないはずの所に物を置くな。」とよく注意された。高校で工業技術を学んでいる兄は祖父のサポート役で、工具や材料の買い出しや手伝いにかり出される。最初は兄が主導権を握りすすめられていた作業のように思えたが、手とり足とり教えていたのは実は祖父だった。技術的にもまだまだ未熟な兄に、一つ一つ諭すように話しかけている。人の為に役立てる喜びが、明日を生きる原動力になっているのだろう。そんな祖父と兄の様子を見て近隣の方が声をかけてくれたり、時には足りない物を補充してくれた。作業をする二人の姿は通る人の目にとまり、いつか話の輪ができていることもあった。
 祖父は運動不足解消の為、毎日約一時間のウォ―キングを日課としている。主に祖母、兄、私が順番に歩くことが多い。本音を言うと、当初私は何かと理由をつけて逃れていた。私と手をつなぎ歩く祖父を見る、周囲の視線がいやだったのだ。人の手を借りなければ外出できない祖父を哀れみ、掛ける言葉が見つからず通り過ぎる人や、わざと目を合わせない人。私達は以前と少しも変わっていないのに・・・。一生懸命で前向きな祖父を思うと、とても辛く悲しかった。しかし、祖父はそんな私の気持ちに気付いていた。つないだ手や歩みの様子で、感じとっていたのだろう。
 「お疲れさま。ありがとう。」と、こんな私にも感謝してくれる祖父の為に、もっと強くなりたいと思った。私は自分からすれ違う人に挨拶の声をかけるよう心掛けた。自分が変わっていったせいなのだろうか、時がたつにつれて、周囲の視線が気にならなくなってきた。祖父への励ましの言葉も素直に受け入れられるようになってきた。
 祖父はハンデキャップを抱え、とても不便になった。どのようなハンデキャップを負ってしまったかによって、不便さはそれぞれで、それを補う手立ても一人一人に対応できるきめ細やかさが必要とされる。今のところ家の中や敷地内では自由に歩き生活している祖父も、介助者無しには外出できない。私が住んでいる地域は農村なので点字ブロックは限られた場所にしか見当たらないし、段差も多い。
歩道や信号も不足している。今の日本の経済状況を考えると、早急に整備されることは到底有り得ないだろう。しかし、私達人間はささえ合って生きることができる。祖父がハンデキャップを負ったことで、何より私達家族の絆が深まった。時には言い争いながら、時には励まし合いながら、祖父を思いやり、祖父を支える祖母を思いやり、それぞれが皆の為に支え合う毎日だったように思う。そしてこれからもずっと祖父は、家族に支えられ、地域の人たちにも支えられ、力強く生きていくだろう。


*佳 作*


『わたしのお兄ちゃん』    花水小学校4年  長友 明希さん

 わたしのお兄ちゃんは、耳がきこえません。お話をするときや、ケンカをするときは、いつも手話を使っています。
 もしも、お兄ちゃんの耳がきこえていたらどうなっていたのかなぁ。
 「もっと仲よくなっていたのかなぁ。」
 「いっぱいしゃべっていたのかなぁ。」
 「勉強を、教えてもらっていたのかなぁ。」
 「どんな声だったのかなぁ。」
 いつもケンカばかりだけどお兄ちゃんのことは好き。お兄ちゃんは、明るいし、いつもおもしろいから好きです。
 たとえば、動物の犬やねこの物まねで、体も使って表げんします。
 犬がトイレをするしぐさや、エサを食べる物まねが、とても上手です。ほえ方も上手で、つい笑ってしまいます。
 「お兄ちゃんは、よく犬をかんさつしているなぁ。」と思います。
 わたしは、家の中では、コミュニケーションは手話です。
 お兄ちゃんとお話をするために手話を覚えました。
 1ヶ月に1回耳がきこえない子ども達のフリースクールにさん加しています。ようち園生から高校生まで30人ぐらいいます。
 教えてくれる先生たちは、みんなろう者です。フリースクールでは、じっけんをやったり、自分の自己しょうかいカードを作ったり、料理を作ったり、体を使ったゲームをします。また、キャンプやスキーにも
行きます。
 みんなでおふろに入ったり、いっしょにねたりします。夜、みんなでお話しをしたりすることが、とても楽しいです。友達とおそくまでおきていて先生がくると、ねたふりをします。ちょっとドキドキします。
 耳がきこえなくても、いっしょに楽しいと感じるし、耳がきこえても、きこえなくても、心の中で感じることは、「同じなんだ。」ということがわかりました。
 これからも、ろうの人達と仲よくして、いろんなことを学びたいと思います。

第31回神奈川県福祉作文コンクール

本年度は、県内小・中学校429校から9,672篇もの作品が寄せられ、その中から平塚市の2作品が佳作に入賞しました。おめでとうございます。


*佳 作*
『弟の笑顔のために』   城島小学校4年      本橋  舞さん


七歳の弟は、生後三カ月の時に病気になり、家から遠い病院に五年半入院していました。長い間はなれていて、とてもさみしかったです。でも、いつか病気が治って元気に家に
帰ってくるのを楽しみにしていました。でも、病気は治らず少しずつ悪くなっていきました。治らないことを知った時は、とても悲しかったです。それでも退院することになった時はいっしょにいられるようになるので、うれしかったです。でも弟は、すでにねたきりの障害者になっていました。
 家では、こきゅう器や点てきをしています。食べる事や話すこと、体を動かすことも出来ません。それでも、弟といっしょにいられるのは、うれしいです。
 弟がいると、父と母は、たんのきゅう引など、いろいろとやる事が多く大変です。中でも一番大変なのは、お風呂に入れる事だそうです。
 私は、母が弟の世話と家事をやっていて、大変そうなので、ゴミ出しや食器洗いを手伝っています。弟の事は手伝えないので、そのうち洗たくや食事作りも手伝えたらと思います。そして弟が出来るだけ入院せずに、家にいてくれたらいいと思います。
 それは、家に帰ってから笑うようになったからです。そして日に日に笑うことが多くなっています。家族の声が聞こえると、「ニャツ」と笑います。また、弟は昼間もねていることが多いので、いっしょに遊ぼうと「諒くん! 起きてよ!」と無理矢理起こすとおこった顔をしますが頭をなでてあげたり歌ってあげたりすると笑ってくれます。だから弟と遊ぶと楽しいし、とてもうれしくなります。
 でも、がまんしなくてはいけないこともたくさんあります。入院していると、面会について行くだけで弟には会えず、とてもつまらないです。また、家にいると母は弟のことになると「後でね。」と言って、私の事は後回しになってしまいます。また、車いすの弟がいっしょだと遊びに行く場所もかぎられてしまいます。こんな時、私は弟が障害者でなかったらと思ってしまいます。
 でも、弟は障害者です。車いすの生活も切りはなせません。車いすのい動は、大変です。だから、お店や歩道のだんさをなくし、通路を広くしてほしいです。今は昔より、ずいぶんよくなっているそうですが、私は、まだまだ足りないと感じます。もっといろいろな所をべんりに使えるようにしてほしいと思います。そして家族そろっていろいろな所に遊びに行きたいです。弟の笑顔がもっともっとたくさん見たいから・・・・・・


 *佳 作*
 『できる事から』  太洋中学校1年  柴尾 美音さん

 目の前が、真っ暗になった。
 光もない。あるのは、音と感触のみだった。
 そんな今まで感じた事のない体験をしたのは、7月18日の学校の授業だった。災害と福祉について学ぶのがテーマで、ただ講義を受けるだけではなく、実際に体験学習するものだ。2時間近くかけて行い、4種類全て廻った。被害者の搬送法、ケガの手当て、地震体験・・・と廻って、最後に、視覚障害者の体験誘導法へとうつった。
 私達は、どれほど補助が大変か、どうやって行うのか、注意などを受けた後、次にペアになった。そのペアに一つずつ、目隠しと、杖のような物が渡された。この杖を「白杖」というらしく、とても大切だと説明された。どう大切なのか分からないまま、私はその時うなずいていた。「わかっています。」とでも言うように。
 「つけて下さい。」と合図がかかった。皆で一斉に目隠しをして、白杖を握った。私も友達の二ノ腕をつかみ、テイツシュで覆われた目隠しをつけた。するとー・・・
 目の前が、真っ暗になった。そこにあるのは、ただひたすらの闇と、音と、感触と、そして恐怖だけだった。
 「歩くよ?」
 友達の声が、どこからか響いてきた。私はその声に思わずビクツとして、身を縮めた。白杖がだんだん汗ばんできて、友達の二ノ腕を持つ手に力がこもった。ゆるめれば、私の手をスルリと抜けてどこかに行ってしまう気がしたからだ。その時、友達の歩みが始まったらしく、軽く前に引っ張られ、その勢いで私の足も一歩前に踏み出した。頭が混乱する。
 今自分が、どこにいるかを必死で想像しょうとして、すぐにやめた。私はこの体育館は何度も見たり触ったりした事があるから覚えているけど、障害者はそんな事出来ないと、フイに思ったからだ。でもどこかにぶつかるのではと不安で、私は必死に白杖を前で動かし続けた。そんな私の姿を見て、友達は私が不安がっている事を悟ったのだろうか、
 「まだ大丈夫。まだまっすぐだからね。」と声をかけてくれた。その声は、一人暗闇の世界に放りこまれた私にとって、救いの天使のように思えた。
 「階段上るからねぇ。段を確かめてね。」
 そう言われて慌てて白杖をあてると、そこには階段という壁があった。いつもは五秒も
しないうちに駆け上がってしまうそれを、私は友達の声にあわせ、三十秒もかけて上った。
それは、今まで私が上っていた階段ではなかった。黒くぬりつぶされた、長く高い山の様 
だった。まして、友達の手を離せば、私は転倒して前進する事を諦める所だった。それだ
けで絶望している私に、次に襲いかかって来たのは、こんな言葉だった。
 「次、せまい所通るからねー。」
 この時ばかりは、私の脳の記憶を総導引させ、この場所に何があったか、必死で思い出そうとした。階段までは覚えているが狭い所なんて無かった気がするのに・・・。かなり不安で、私は思わず友達に声をかけた。
 「いっ、今どこ?」
 私が質問するとすぐに
 「ちょっと待って。今・・・。」
 と返事が返って来た。そして次に、私の手は友達の手首に降ろされ、杖を握る手は何かに触れた。冷たい感覚が指を伝う。友達は、
 「ここ、ピアノね。で、こっちが机です。この間を通るからね。」
 そう言って私の手をトントンと、それらに触れさせてくれた。どこだかも分からぬ不安が一気に取り除かれるのだった。
 目隠しを取り光を感じた時、私は安心すると同時、怖くなった。「この世界で生きている人がいるんだ。生きなくてはいけない人がいるんだ・・・。今まで何をしても福祉にはあまり興味の無かった私は、自分が恥ずかしくなって、この体験学習を通じ、考え続けた。
 駅前の道に、点字ブロックが並んでいる。しかし、自転車にうもれ、ほとんどの人がある事に気付いていない。私は、あの体験を思い出し、自分が出来る事からコツコツ行動する事で、目の不自由な人が安心して暮らせるような社会になる事を想いながら、自転車をどかし続けた。

第30回神奈川県福祉作文コンクール

本年度は、県内小・中学校から10,484篇もの作品が寄せられ、その中から平塚市の3作品が優秀賞、準優秀賞、佳作に入賞しました。おめでとうございます。


*優秀賞*(神奈川県教育長賞)
『兄の病気と僕』   金目中学校1年      星  隆也さん


「遺伝性ニューロパチー」これは、難病特定疾患にも指定されている難しい病気です。
 僕には、5つ歳の離れている兄がいます。兄が中学1年の時、今の僕とちょうど同じ年の冬に病気がわかりました。その病気が「遺伝性ニューロパチー」です。この病気は、末梢神経の病気で、脳からの指令が筋肉や運動器官にうまく伝わらず、筋力が一度衰えると筋肉がつかなくなり徐々に歩行や日常生活が困難になってしまう病気だそうです。まだ治療法も薬も見つかっておらず、現在の医学では治すことのできない難しい病気です。
 病気がわかった当時、兄はサッカー部に入っていて、毎日部活を頑張っていました。
 でも、徐々に転んでけがをしたり、足をねんざしたりすることが多くなっていきました。
そして中学2年の冬、足首を骨折してしまって、ギブスを2ヶ月していました。その間に筋力が衰えてしまい、歩くことができなくなってしまいました。そこから、兄に対する僕たち家族の介助が始まりました。でも兄が骨折した時、僕はまだ小学校3年生だったので、「また歩けるようになるだろう」、「また一緒にサッカーをできるだろう」などと思っていました。でも、そんなに簡単な病気ではありませんでした。骨折してから兄は、車いすになってしまい、ボールを蹴るどころか、松葉杖なしでは歩くのもままならなくなってしまいました。そんな中で僕は、兄の手助けをするようになり、今までにも色々な手伝いをしてきました。
 最初のころは、車いすを押したり、家の中では、歩行が難しくなった兄に肩を貸したりと、当たり前に接していました。しかし、病状が進むにつれて、してあげなければならないことが多くなっていき、着がえや入浴、寝ている時は上体を起こしてあげる、車いすに乗った時は、靴を履かせるなど、介助から完全介護へと変わっていきました。皆が手伝わなければ、兄一人ではどうすることもできないとわかっていながらも、自分が遊びたい時や、疲れている時などは、「なんで俺ばっかり・・・。」と兄に文句を言ったり、親と喧嘩になることもあります。それは今もですが、それでも兄は、僕たち家族にとってたった一人の兄だし、病気で一番つらいはずなのにいつでも笑顔を絶やさない兄は、僕にとって世界で一番の兄です。
 病気の姿を通して、色々なことを教えてくれているのだと、よくお母さんは話します。もし、自分が兄の立場だったらと考えると、友達と遊ぶことや、好きなスポーツをすることなど、将来の夢や希望を全て失ったような気持ちになります。考えただけで、苦しくて、苦しくて、胸がすごく痛くなります。でも兄は、グチも言わなければ、「この病気になったのが自分でよかった。お前たちじゃなくてよかったよ。」と笑顔で言ってくれます。「それにこんなにつらい思いをお前たちには絶対させたくないからさぁ・・・。」と。確かに兄弟だから、色々頼まれたりすることが多い時などは、つい「自分でやれよ」と言ってしまうこともあるけど、そんな時でも兄は「ごめん。頼むよ」と笑顔で受け応えをしてくれます。いつも気持ちよく手伝ってあげられるわけではないけど、兄がいつまでも今のままの笑顔で毎日が過ごせるように、僕ができることは、できる限り、何でも手伝ってあげたいと思います。 今、一番兄から頼まれることは入浴です。十七歳の兄は、父や母に入浴を手伝ってもらうことが一番いやみたいで、どんなに疲れていても、入浴だけは僕が手伝います。頭を洗ってあげたり、背中を流してあげながら、学校のことや、友達のこと、たまに女の子のことも話したり、大変だけど今は楽しい時間を過ごすことができています。
 僕は、生活全部にたいして特別なことをしているのではなく、当たり前の生活として受けとめています。そうして、これからも兄の病気と家族の皆で闘い、学び、支え合い、すべて前向きにとらえて、毎日が楽しく思えるように、僕自身、成長していきたいと思います。今回この作文を書くことを通して、また改めて強く感じたことがありました。
 「お兄ちゃん、俺のお兄ちゃんでいてくれて、ありがとう。」


*準優秀賞*
『小さなおばあちゃん』  みずほ小学校5年  恩田 康平さん


 学校の帰り、見知らぬ小さなおばあちゃんが、暑い中、重そうな荷物を持って歩いていた。
 ぼくは、それを見た時「大変そうだなあ。持ってあげようかな。」と思った。声をかけようと思ったけど、ドキドキしてなかなか声が出ず、ゆっくりと荷物を持って前を歩いている小さなおばあちゃんを見ながらどうしょうとか、なんて言った方がいいかと考えていた。
 学校や母からも、こまっている人達がいたら声かけして力になってあげようという話を聞いていた。ぼくは勇気を出して声をかけた。「大丈夫ですか、荷物を持ってあげましょうか。」声をかけたぼくは、ドキドキしていた。その小さなおばあちゃんは、うれしそうな顔をして「ありがとう。」と言ってくれた。その時、ぼくは勇気を持って声をかけてよかったと思った。そして、重そうな荷物を持ってみた。重かった。重くても、がんばって持ってあげようと思った。小さなおばあちゃんは歩くのも、ゆっくりでその速さに合わせて歩いた。小さなおばあちゃんと色々な話をしながら歩いた。ドキドキした気持はなくなっていた。不思議だと感じた。いつの間にか、楽しくなっていた。でも、やっぱり荷物はとても重い。
 いっしょにあるいて行くと、小さなおばあちゃんは、「家が近くなったから、もうここでいいよ」と言って、荷物を手に取った。その後、「ありがとう」と言ってくれて、「帰りがおそくなったけど、大丈夫」と心配してくれた。ぼくは、「はい、大丈夫です。」と答えた。
 なんだか、「やったぁ」という気分になった。ひとりでニヤニヤした。その後、いそいで帰った。
 家に帰ってこのことを母に話した。母は、「すごいね、ほんとにできたの」とびっくりしていた。その後、「良い事をしたね。」、こねこねと頭をなでまわして、「これからもできる事はやってね。」と母はいった。
 ドキドキするけど勇気を出して行動する事の大切さがわかった。わかっていても、なかなかできないけど、小さなおばあちゃんのことを思い出して、自分のできることをやっていきたいと思う。


*佳作*
『僕と祖父母』   金田小学校6年  角田   甫さん


 「おーい」
 今日も祖父の祖母を呼ぶ声がする。僕の祖父は6年ほど前に脳こうそくで倒れ、それ以来、左半身にマヒが残り、生活全般に介護が必要となっている。
 母の話によると倒れた時には医師から「もう歩けないでしょう。寝たきりになるかもしれません。」と言われたらしい。しかし、じっとしていることが嫌いな祖父はリハビリに励み、かなりの努力をしたらしい。おかげで、足に装具を付けて、杖を突きながら歩くことができるようになり、トイレも一人でやっている。機能が残っている右手右足を十分に使って好きな畑仕事をして家族の食べる野菜も作っている。そして日課の散歩は欠かしたことがない。こうした祖父の一つ一つの行動がリハビリになっているのだ。祖父は祖父なりにがんばっているなと思う。
 しかし、生まれつき行動力のある祖父は今の生活に満足はしていない。なぜなら、着がえをしたり、身体をふいたり、爪を切ったりする時には手助けが必要だからだ。もちろん、重い物は持てないし、くわも使えなくなった。大好きだった旅行にも行かれなくなったし、車の運転もできなくなった。
 自分で自分のことができない悔しさ。大好きなことができなくなったさびしさ。こうした気持ちをどうにか、できないつらさが、生活の中に出てきてしまうことが度々ある。いらいらした気持ちを祖母にぶつけてしまうのだ。
 祖母はそんな祖父のさびしさやつらさがわかるのだろう。何も言わずに祖父の着がえを手伝ったり、食卓には祖父の身体を考えた献立を並べ、三度の食事のしめくくりには必ず果物をそえている。お茶を飲みながら、ご近所での出来事などを話してあげたりしている。
 他にも祖母は、仕事をしている母の代わりに、僕の塾の弁当を作ってくれている。僕が遅く帰宅しても「おかえり」と元気な声で迎えてくれる。そんな祖母が僕は大好きだ。僕は祖母に毎晩、姉と二人で肩に薬をはってあげたり、肩をもんであげたりする。「お弁当おいしかったよ」「おじいちゃん、そんなわがままを言うと、おばあちゃんがかわいそうだよ。」と僕が言うとすてきな顔をする。
 二人のそれぞれのつらさはよく分かるが、二人に対してはやさしい言葉かけが一番の特効薬だ。二人の話し相手になることが、僕の大事な役目である。

第29回神奈川県福祉作文コンクール

本年度は、県内の小・中学校から11,628篇もの作品が寄せられ、その中から平塚市の3作品が優秀賞に入賞しました。おめでとうございます。

*優秀賞*(ふれあい賞)
「ひばば」とぼく   岡崎小学校1年   山田 謙悟さん


 「ひばば」は、ぼくのひいおばあちゃんだ。おかあさんのおかあさんのおかあさんで、ひばばがはちじゅっさいになるときに、ぼくがうまれた。
 ぼくがうまれたとき、ひばばはバスにのって、あいにきた。おかあさんからきいたけれど、あついひなのに、つえをついて、あせまみれできてくれた。ぼくがひばばのはつひまごだったから。
 なつやすみになってすぐに、ばあばとひばばとりょこうにいった。ひばばのおせわは、とてもたいへんだった。
なにがたいへんだったかというと、ひばばは、さいしょは「おんせんに、はいらない。」といっていたのにきゅうにいくっていって、さきにはいっていたばあばのところへ、ぼくがつれていかなくてはいけなくなった。 ひばばはあしがわるい。かいだんがたいへんで、ぼくはゆっくりあるいてあげたり、エレベーターにのせてあげたりした。
 あさのしょくじのときもたいへんだった。ばあばとぼくで、ひばばのごはんをとってきた。ひばばがごはんをもってあるけないからだ。
 まだある。ひばばは、みみがとおい。おしゃべりはとくいだけど、ぼくのいっていることがわからない。だから、おおきいこえではなさなくちゃいけないからたいへんだ。
 そんなひばばがわかかったときには、にほんじゅうがアメリカとせんそうをしていて、ひばばはたいへんだったみたいだ。おとうとがせんすいかんにのっていて、ばくだんでしんでしまって、つらくてかなしかったそうだ。いまは、いつもげんきでわらっているけれど、むかしは、そうじゃなかった、としって、ぼくは、びっくりした。
 ぼくは、ひばばにながいきしてほしい。
 ぼくがあしのわるいひばばの、あしのかわりをしてあげたい。てつだってあげたい。ひばばのかおもみにいってあげたい。だってぼくは、ひばばのはつひまごだから。
「けんごがはたちまで、いきるよ。」
て、ひばばはいっていた。ぼくはしんぱいだけど、ほんとうにひゃくさいまでいきてほしい。
 ひばば。いつまでも、げんきでいてね。


*優秀賞*(県教育長賞)
「私が思うこと」   県立平塚養護学校中学部3年   羽山薗 優里さん

 私はもともと健常者でした。けい椎の奇形が原因で、小学校5年生の時に、身体にマヒが起りました。その結果、自分で体を支えられなくなり、4年くらい前から車イスを使った生活をしています。
 今まで当り前に出来ていたことが、急に出来なくなり、最初は戸惑いを感じました。きき手の右手にマヒが強く出たので、左手で字を書いたり、食事をしたりする練習をしました。そんな私の移動手段が介助式(人に押してもらう)の車イスになったのです。車イスでの生活を始めて、色々と不便なこと、不快なことを感じるようになりました。
 まず私の前に、大きな壁が立ちはだかりました。それは家の中、お店の中、公園、とどこにでもある小さな段差です。マヒが起こる前までは、気にもとめなかった小さな段差が、私の大きな障害になったのです。横断歩道から歩道へ上がる、2センチメートルほどの段差でも、すんなりとは上がれず、母は力を込めて、前輪を上げて、越えて行きます。お店の床によく見かける、ケーブルのカバーでさえ、車イスはガタガタして、乗っている私も、その振動で揺れてしまいます。これらの段差の存在が私を遠まわりさせたり、時には、その先に行くのを、諦めさせたりするのです。
 行く手をはばまれることでは、狭い通路も同じです。私は雑貨屋、アクセサリーショップ等を、見て回るのが好きです。けれど棚と棚の間が狭かったり、かばんのようなおおきな物が、張り出していると、中へ入って行けません。そんな時は母や妹に、見たい物をいくつか持って来てもらいます。本当は自分で手に取って見たいのに。土日は、人も多くなるので、平日なら入って行くお店も、だいたい、「今日は止めようか。」と、なります。
 このように書いていると、私のグチばかり並べているみたいですが、たぶん多くの車イス利用者が、同じような思いや体験をしているのではないでしょうか。街中や建物のバリアフリーは、少しずつ進んでいますが、その中身にもう少し配慮があれば、もっと気持ち良くすごせるだろうと、思います。
 去年、こんなことがありました。私が通う養護学校の、夏の学年レクリエーションで、品川水族館へ行きました。平日でしたが夏休みだったので、多くの人でにぎわっていました。昼食を食べて、見学をしているうちに、1日に何回か開かれるイルカのショーの時間が近付いてきました。狭い会場は、スゴイ人ごみです。「車イス優先席」の張り紙はありますが、そのスペースはすでにたくさんの人で埋めつくされています。次のショーは帰りの時間になってしまいます。「ダメかな。」と思っていると、付き添いで参加してくれた先生が、「すみませーん。道を開けて下さーい。車イスの子供達が入りまーす。」と、大きな声を出してくれました。しかし周りの人達は、チラッと声の方を見るだけで、誰も動こうとしません。その様子を見て先生は、「すみませーん。」と言いながら、ゆっくりと進んで行きます。すると、「あたし達は、ずっと待ってたんだから、どうしてどかなきゃいけないの。」と、孫と一緒のおばあさん。「車イスだからってなんで並ばないの。」と息子と一緒のお父さん。一瞬シーンとなって、とっても気まずい雰囲気になりました。私は、優先されることを当たり前とは思っていません。エレベーターや、切符を買うのも、きちんと順番を守ります。でも、クラスの中には私よりも障害が重い友達が何人もいて、その様子を見れば、長い時間人ごみの中で待つことが、とても辛いのだろうと、察しがつくはずです。なんのための「優先席」なのでしょう。あの人達は、電車やバスの優先席でも先に座ったからと言って、障害者やお年寄りに席を譲らないのでしょうか。結局、会場の中の人達が少しずつ詰めて、私たちはショーを見ましたが、先ほどのお父さんが、息子を私の車イスの前に、ぐいぐいと入れてきて、とても見づらかったです。ショーの後も、しばらく嫌な気持ちは続きました。
 似たようなことは、私の日常によくあります。でも、それらのほとんどは、ちょっとした思いやりがあれば、解決できることです。それを多くの人が持ってくれたら嬉しいです。そして私も障害に甘えないように、心がけたいです。

*優秀賞*(テレビ神奈川社長賞)
『祖父と別れて』   浜岳中学校1年   金沢 真さん

 この夏休み中、祖父が亡くなりました。胃ガンが再発し、腹膜や肝臓へ転移したためです。
 僕の両親は、共働きだったので、僕は0才から6才まで、毎日、祖父に手をひかれて保育園に通いました。小学校に入学してからも授業参観や運動会には、必ず祖父が来てくれました。毎日学校から帰ると、「真、お帰り」と大きな声で迎えてくれて、公園へ行ったり囲碁を教えてくれました。
 僕にとって、祖父は、父と母、二人の代わりでした。
 6月くらいから、一緒に食事をしているとき、おじいちゃんのご飯が、ほとんど減らないのに気づきました。7月に入ってからは、ほとんど口から栄養をとれない状態になり、近くの病院に点滴を打ってもらうために毎日通いました。おじいちゃんの両腕が、あっという間に紫色になっていきました。僕が「入院しなくても平気?」と聞くと、「家にいる方が、入院するより楽なんだよ。」と笑って言いました。
 8月に入ると、自宅から歩いて3分で行けた病院にも、一歩一歩、まるで険しい山道でも歩くかのように、以前の何倍もの時間をかけて僕と通うようになりました。そしてその病院が盆休みに入る直前、平塚市民病院へ緊急入院。市民病院に入院した時には、すでに、おじいちゃんが嫌がっていた胃カメラの検査もできない状態でした。
 「人に迷惑をかけない」というのが祖父の口ぐせでした。母には、「夏休みになったら入院してもいいかなあ。」とか「真の全国大会が終わるまでは入院できないな。」と言っていたそうです。「何でそんなに一人でがんばっちゃったの。」悔しさと悲しさで胸がいっぱいになりました。
 祖父が入院すると、すぐに母も病院に泊まるようになりました。祖父が、夜中になると歩けないのに、自分の力でトイレに行こうとして点滴のくだをはずしてしまうからです。看護婦さんも三交替で、24時間、祖父のことを見てくれました。夜中でも、数分おきになるナースコール。祖父だけでなく、たくさんの患者さんの面倒を見なければいけないのです。大変なのは僕の祖父だけではなかった。家族はもちろん、祖父の最後の面倒を見てくれたお医者さんや看護婦さんも、それぞれ大変な思いをしておじいちゃんと一緒にたたかってくれた。病気で苦しむ本人だけではなく、周りの人が一緒になって支え合ってくれる、こういう世の中を福祉社会というのだと思いました。
 「人に迷惑をかけたくない」とお年寄りはよく言います。でも、僕はもう、誰のおじいさん、おばあさんであっても、そんな言葉を絶対言わせたくない。そばに行って、手を握って、一緒にゆっくりと歩いてあげたい。 「迷惑なんかじゃないんだよ。おじいさんやおばあさんに長生きをしてもらえることは僕たちにとってうれしいことなんだから。たとえ、健康でなくても、歩けなくなっても、ただ生きていてくれるだけで、僕たちは、うれしいんだから。」
 お年寄りや弱い立場にある人が、周りの人に、もっともっと甘えられる社会をつくっていきたいです。 家で食事をするとき、祖父が座っていた席があいたままです。ゆっくりご飯を食べていれば、今にも祖父が二階から降りてきて、またみんなと食事をしてくれそうな気がします。祖父が亡くなったということが、今でも信じられません。いつか、ひょっこり僕の目の前に現れてくれるような気がしてなりません。
 僕は今、祖父の机で学校の勉強をしたり、祖父の碁盤で、9月に迫った囲碁のプロ棋士採用試験にむけて棋譜並べをしています。
「真、ここで勉強しなさい。」と言ってくれているような気がするからです。祖父の机に、祖父が詠んだ俳句が飾ってあります。
 「枯蓮(かれはす)の枯れきるまでを支へ合ふ(う)」  

第28回神奈川県福祉作文コンクール

本年度は、県内の小・中学校11,074篇もの作品が寄せられ、その中から平塚市の作品が優秀賞に入賞しました。おめでとうございます。


日本放送協会 横浜放送局長賞
「父にとってのバリアフリー」     春日野中学校1年   尾上幸太朗さん


 僕の父は、左足の膝から下がない。
 僕が小学三年生の夏休み、事件が起きた。帰宅途中に道を歩いていて、後ろから来たワゴン車に追突され、一瞬のうちに左足を失った。それから約一年間病院に入院し、その後もリハビリのため会社を休んで通院している。
 僕は、今まで父の足のことについて、人に話すことはなかった。友達に詳しく聞かれることもなかったし、あえて話したくもなかった。
 しかし、時がたち足が不自由になって思うようにならなくていらだった父の
「くそっ。」
という言葉を耳にするようになって、父が何にいら立っているのか、僕も考えるようになってきた。父が困っていることとは、どんなことなのだろう。父に直接聞いてみることにした。
 父の答えの第一番目は、自由に歩けないということであった。人間の最も基本的な動作である歩くという行為が自由にできないこと、これは非常につらいことだと思う。松葉づえや義足を使った歩行では、平らな道は平気でも、階段、坂道、水たまり、滑る場所となるともうお手上げだ。
 現在、平塚市でもバリアフリー化が進み、障害者専用の駐車場、トイレ、スロープなど大分整備されてきて、歩行も少しずつ楽になってきてはいるが、使う立場からみてみると、まだまだその数が少ない。
 たとえば、大きなディスカウントストアは、駐車場のスペースが広く、エレベーターや専用のトイレなどの設備が整っているが、小さなお店では、ほとんどそうゆう設備がない。また、入口からスロープを使って中に入ってみると、その中に階段があるというように、部分的なバリアフリーにとどまっている場所がとても多い。たとえば、駅から電車に乗る場合を考えてみると、駅に行くためには階段やエスカレーターを利用しなければならない。エレベーターは、駅ビルが営業している時間しか使えないからだ。駅に着いてホームまでエレベーターを使ったとしても、ホームから電車に乗るためには段差がある。これからの日本は高齢化が進み、お年寄りがとても多くなると言われている。誰もが行きたい所に自由に行けるために、バリアフリーの設備を充実させていってほしいと思う。
父の答えの二番目は、人の目が気になるということであった。父がけがをしてから少しの間、僕は、父の左足がないことをできるだけかくしていた。他人の父親と違うことに不安を持っていた。他人の目を恐れていた。それは、父も同様で、人に見られることをいやがっていたようだった。事故から四年という月日がたって、僕も、父と外に出ても、他人の目なんて気にならなくなってきた。父が言った。「おれは、慣れてそれほど気にならなくなってきたが、おまえ達が気になっていないのかの方が心配だ。」という言葉に、僕は感動した。自分のことより、子供が、親が障害者であることが、友達とつき合っていく上でのハンディキャップにならないか、また、心の重しになっていないかを心配してくれている父の気持ちを知ってとてもうれしかった。
 父は毎日義足をはいて総合公園に行って、散歩をしながらリハビリに励んでいる。自分の足で歩くことをあきらめずに毎日頑張っている父が、僕は好きだ。この作文を書くための父との話し合いを通して、僕は、父の素晴らしさというものが分かったような気がする。
 父は若い時から、登山、水泳、マラソン、スキーが得意だった。僕が大きくなって一緒にやることをとても楽しみにしていた。今から六年たったら、世の中のバリアフリー化もどんどん進んでいくだろう。僕が大学生になったら、頑張っている父と一緒に山に登ってみたいと思う。

第27回神奈川県福祉作文コンクール

本年度は、県内の小・中学校431校から10,499篇ものの作品が寄せられ、その中から平塚市の作品2篇が準優秀賞に入賞しました。
おめでとうございます。

なお、入賞作品2篇のうち、本人の希望により1編は掲載を省略させていただきました。


「あの日の出会い」     春日野中学校3年   佐々木 梓 さん


 私は何度か、身体の不自由な人々とふれあった事があります。その中で一番印象に残った出来事が、車椅子の人との事でした。
 それは、私が小学校三年か四年生の頃、友達と三人で遊んでいる時、その中の一人が、「ねぇ、あの人困ってない?」と、大荷物を持って坂の上に居る車椅子に乗った男の人を見ながら言いました。彼女は「助けてあげようよ。」と、言いかけて、私達の返事も聞かず、その人のもとへ走って行き、何か話し始めていました。
 実は私も、遊んでいる時から車椅子に乗った人の姿に気付いてはいました。「ずっと坂の上で何やっているんだろ?」と、思いながらも、何だか気が乗らないと言うか…正直、関わりたくなかったので、助けようとはしませんでした。
 重い足どりで、坂の上までもう一人の友達と行きました。先に走って行った友達が次に何を言い出すのか、うすうす気付いていました。「駅へ行くんだって。一緒に押して行ってあげようよ。」すでに彼女は車椅子のハンドルを握っていました。もう一人の友達も…「うん。」と言ったので、遊びを中断して、駅まで行くことにしました。
 車椅子の人の顔は、あまり良く覚えていませんが、少し年老いていた様な気がします。無口そうに見えましたが、優しそうな人でした。
 駅までは、かなりの道のりがあったので、私達は交替で、車椅子を押したり、荷物を持ったりしました。無口そうに見えるその人は、意外と話が好きな人の様で、友達と色々お喋りしながら駅まで向かいました。でも私は、只それを聞いているだけでした。
 歩いていると、駅までは坂道や段差が所々にあり、車椅子の人にとっては楽で安心な道路ではありません。自分の中で「毎日、こんな大変な思いをしてるんだなぁー。」と言う思いが、生まれて初めて芽生えました。
 そしていつの間にか、自分からその人に話しかけていました。「車椅子は不便ですね。」
……今思えば、車椅子の人に向かって、こんな事を言うのは失礼だと解かりますが、でもこの時の私は、ふいに言ってしまいました。しかし、その人は「…そうだね。でも今日は平気。どうもありがとう。」と、笑顔で言ってくれました。私は嬉しく思いました。一瞬でも、「関わりたくない」と思った自分が酷いと思いました。「ありがとう」……あの響きは今でも、はっきり覚えています。
 駅に着き、その人は再び私達に「もうここで大丈夫、ありがとう。」と言って、私達それぞれの手を取り、百数十円を手の平に乗せて、こう言いました。「バス代、これで帰りな。じゃあね。」
……そんなつもり手伝ったんじゃ……
「大丈夫です!歩いて帰りますから。」と言ったけど、車椅子でゆっくり方向を変え、改札口へ行ってしまいました。なぜか、二度と会わないと思うと淋しい感じがしました。
 …あの日、車椅子の人に会えて、この様な経験が出来て良かった。……
私は今でもそう思っています。全然知らない他人でも、本当に困っている時は、お互い助け合う事は大切だと思います。もしも私があの時、手伝ってあげなかったら自分自身「悪かったな…。」と、後悔していると思います。私が逆の立場だったら、助けて欲しいから。
 私は初めてこの体験で、障害を持つ人の気持ちが解かりました。例えば、私は普段、坂道や、ちょっとした数センチ程度の段差など、あたり前の様に歩いていますが、それは車椅子の人にとっては、とても大変な事なのです。大体、二足歩行しているだけでも、すごく幸せなのです。
 私達は、いつもあたり前の様に暮らしていますが、一方で困っている人もいます。そうゆう人に、私達が協力してあげる事が、心のバリアフリーだと思います。
 皆それぞれですが、協力し、支え合い、助け合える事こそが、一番の幸せではないでしょうか?